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空が跳ぶ

[2025.02.04]

2022年9月5日に男はやってきた。ガラス越しにじろじろと僕を見つめ、“意志の強そうな猫やね”と彼が後ろを振りむいた先には男の妻がいた。“すっごく可愛いね”と彼女は聞きなれた言葉を発する。実際、たくさんの人間が足を留めては、“かわいい、バンビみたい”という。確かに美形であることは僕のたくさんの長所のひとつではあるが、人間たちにいいたいのだ。言葉はいらない、この退屈で、閉ざされた場所から一刻も早く、何処かへ連れ出してほしいと。

 

いきなり体がふっ、と軽くなり、僕は男の腕の中にいた(図1)。酒を飲んだ帰りらしく、壱岐ゴールドの香りがする。酒飲みは苦手だが、環境脱出という目的のために忍耐する。夫婦の会話から察するに串揚げを食べてきたらしい 。“ちっちゃかね”と男はいう。そう、僕はまだ生後2か月なのだ。いつも僕の体を優しく舐めてくれた美しい母が懐かしい。3人のお茶目な妹たちも。全く猫人生は理不尽と思う。観察の結果、この夫婦は少なくとも悪人、犯罪者ではなさそうだった。意を決して泣いてみる。くう、と。”鳴いた、鳴いた、声も可愛いか“とふたり喜んでいる。阿保くさ、と思う一方で、ひょっとしたら、脱出できるかもしれない、という微かな希望に震える。

図1:男と僕

10日後に僕は男の家にいた。そこでは衝撃的な事実が明らかにされた。僕の兄となる先住猫が居たのだ(図2)。このことは夫婦からは聞かされていなかった。兄の名は“天”というらしい。兄は顔が円形で、極めて狭量であることが特徴だ。初見の時、兄は背を丸めて、しゃー、と威嚇した。そんな挑発に乗るはずもなく、にゃご(日本語:けっ)と呟いて、そっぽを向いてやった。それから、僕の名は“空(くう)”となった。最初にくうと鳴いたことと天と空で語呂がいいから、という単純な理由からだ。もし僕に名前の選択権があったら、“三四郎”にしたと思う。美形で俊敏な自分にぴったりだから。

図2:兄と僕

 

最初の1月間はとりあえず夫婦の腕に嚙みつくことを日課とした。目的はふたつあって、彼らの寛容度を試すことと、兄の攻撃に負けない歯を獲得するためだ。夫婦は“いたーい、くう、噛んだらだめばい”と叫びながらも、けっこう我慢してくれたため、僕の歯はすいぶんと丈夫になった。今ではキビナゴくらいなら、しゃきしゃき食べることができる。イワシはまだ無理かもしれない。

 

2年経っても兄は学習する心がなく、突然に僕の毛を毟って、食べたりするため、不毛な争いを避けるべく、昼間は兄は1階、僕は2階でと住み分けることにした。人間が寝静まると兄は急にやさしくなって、遊ぼう、とやってくる。どうした、急に、とは思うが、家中を荒らす快感は病みつきになる。部屋の中の壁から壁をムササビのように跳び回るのだ。最近のおもしろい出来事として、男が睡眠時無呼吸という病になって、CPAPという治療を始めた。CPAPのホースはぶよんぶよんと揺れるし、カリカリと噛み応えがあって、夜な夜な噛んでいたところ、遂に穴を開けてしまった。男の驚愕した顔が忘れられず、僕も達成感でいっぱいである。

 

夫婦は自営業らしく、時々、疲れた、とか、大変、とか愚痴をこぼしているが、僕も兄も十分量の上質の食が提供されている限り、夫婦の日常にはさほど関心はない。クッキーサンドという菓子と白身の魚の刺身が好物のひとつだ。彼らの気持ちの落ち込みがいつもより強いかな、と思ったときは、胸のところで添い寝してみる。そうすると癒されるらしく、“くう、ありがとう”と礼をいって、クッキーサンドが増量される。口調、まなざし、微妙な表情変化から人間の気持ちを僕は正確に察知することができる。添い寝を獲得すべく彼らはわざとため息をついたり、しんみりしたりする時があるが、だまされるはずもなく、軽く猫パンチをして、ふたりに反省を促す。

 

男の趣味は釣り。チヌ、マダイ、コロダイ、マゴチなどを狙って、投げ釣りをする。男の言によると、たくさんの人と普段は話しているため、時々、たった一人で魚たちと会話したいとのこと。そうしないと病気になる、と叫んでいるが、呆れるくらいの長時間、一心不乱に釣り続けるという行為も十分にビョウキといえるだろう。釣り場のひとつである崎戸ではたくさんの同胞が寄ってくることもあるらしい。ある朝、40Cmのコロダイを猫様に盗られた、と嬉しそうに話しながら、帰ってきた。同胞ながらあっぱれ、である。と同時に大変、羨ましい気もした。今は家の中の壁を這う5mmほどの蜘蛛を捉えることが精いっぱいの未熟な僕であるが、いつの日か、小鳥や野兎に挑むことができる精悍な猫になりたい。

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